「うんこをする」という言葉を、より紳士的なパワーワードにしたほうが勝ち。という世界の中で、僕は何を学び、何を見つけるというのだろうか

ソクラテス「UNKO?」 哲学

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こんにちは! ねこです。

みんな大好き、哲学の時間がやってきました。

哲学は、紀元前の古代ギリシャの哲学者、ソクラテスによって生み出されたものであるとされています。

それから、人類は、その新しい概念の誕生とともに、進化し、成長してきました。

それと時を同じくして、人類が連綿と紡いできた営みというものも確かに存在しています。

そう、うんこです。

ピクトグラム トイレ

紀元前から21世紀の今に至るまで、いついかなる時も、人々はうんこをし、そして流してきました。

何かの始まりも、そして終わりも、また、至上の喜びの中にいるときも、無窮の苦しみの中にいるときも、私たち人類はうんこと共にあったのです。

それはソクラテスにとっても例外ではありませんでした。

ソクラテスは考えました。何度も対話を行い、そして一つの結論を出しました。

「カミのみぞ知る」と。

全知全能の「かみ」

それから2,000年が経ち、文明が高度に発達した世界の中。私たちは、うんこと共に生き、そして、生かされています。

人々はなぜ、うんこをするのか?

私は、その大いなる問題を前に、哲学することを諦めませんでした。

そして、ひとつの結論を導き出す時期がやってきたのです。

「うんこをする」ということ

うんこというのはイデア界に存在する概念というのは、みなさんご存知の通りだと思います。

トイレ

では、うんこをする。ということは、どういうことなのでしょうか?

私たちは排便するまでは、うんこも自分の体の一部であり、それらを分ける境目は存在しません。しかし、排便した途端に、私たちとうんこは別々のものとして認識されます。

では、どこからが自分で、どこからがうんこなのでしょうか?

私たちとうんことの境目は、いったいどこにあるのでしょうか?

うんことは、果たしてするものなのだろうか?

私は、「うんこをする」という行為の名称に着目しました。

そもそも、「うんこ」という名詞に対して、「〜する」という動詞を割り当てるのは正しいことなのでしょうか?

例えば、「〜する」という動詞につく名詞として、「運動する」「引越しをする」などがありますが、これらは、行為そのものが名詞の中に含まれています。

運動する

つまり、「運動」は、「体をうごかすこと」、「引越し」は、「住居の移転のため、荷物を移動させること」と書き換えることができます。

もし、「うんこをする」という言葉が正しいとするなら、「うんこ」という言葉に対して、「私たちがトイレに入って、排泄し、流すという一連の行為そのもの」の意味合いが含まれているということになります。

しかし、「運動をする」「引越しをする」という言葉を、「運動を行う」「引越しを行う」という言い方には変えられますが、「うんこをする」を「うんこを行う」という言い方には変えられません。

だとすると、本来の意味合いから考えても、うんこというのは、私たちの排泄物のことであるため、正しい言い方をするのなら、「うんこを排出する」、または「うんこを出す」。という言い方が正しいはずです。

とすると、「うんこ」というのは、「悲観」「歓喜」などの、感情をベースにした言葉に近いものなのでしょうか?

例えば、「悲観する」というということは可能ですが、「悲観を行う」ことは不可能です。

この曖昧な部分に、私たちが求める答えが眠っていそうです。

人はなぜ、うんこをするのか

先ほど、「うんこ」とは、物質であり、また、行為そのものを意味するものではないが、何か能動的な感情がそこにあるのではないか、という話をしました。

それらを紐解くことによって、「うんこをする」という言葉が正しいものなのかどうか導けるはずです。

私たちが、うんこをしたときに感じる気持ち。それはなんでしょうか?

うんこをする女性

私たちが便座に腰掛け、お腹に力をいれ、排出し、それを眺めながら紙でおしりを拭くときに、一体何を想っているのでしょうか?

想いについては、人それぞれあると思いますが、ひとつだけ人類共通の認識がそこにあることがわかります。

そう、あのすっきりとした気持ちよさです。

つまり、私たちは、「うんこ」という言葉の行為にたいして、「喜び」「開放感」「達成感」というイメージを持っているということになります。

人は、なぜうんこをするのか?

この哲学的問答に、答えをだすとするのであれば、「うんこを通して、開放感や達成感を含む無常の喜びを得るため」であると私は考えます。

探究の果てに

しかし、ここで1つの問題が浮上します。

それは、「うんこをする」という言葉そのものが、あまりに無色無形すぎるということです。

それは、あたかも、「うんこをする」その行為を、機械的、非能動的に行っているように感じられ、「うんこ」という言葉が持つ「喜び・開放感」という意味合いを全く感じることができません。

つまり、「うんこをする」という言葉には「うんこ」に対してのイデアが欠けているのではないか、と考えられるのです。

そこで、「うんこをする」という言葉に変わる新しい言葉を、私は考え始めました。

私は、色々な言葉を当てはめて、比較検討を行いました。

それらは、うんこをひる、うんこをまる、など、方言も含めると多数に上ります。

そして、私はある言葉にたどり着いたのです。

うんことは、嗜むものである

それは、ある種天啓のようでした。突然ある言葉が、私の中で閃いたのです。

紳士の嗜み

うんことは、実は「嗜む」ものではないか。と。

「たしなむ」という言葉には、コーヒーを嗜む、ワインを嗜むという言い方もあるように、それらを咀嚼し、喜びをもって味わう、というような意味合いが存在しています。

これは、先ほど指摘した「喜び・開放感」を持って行う行為であることと一致します。

うんこを排出するという一連の行為、例えば、座る、ふんばる、出す、拭く、流すということを、ただの作業でしかありません。

しかし、「嗜む」という言葉が、実は、うんこという行為において、無上の幸せであるということを再認識させてくれると、私は考えます。

うんこを嗜む。

その一言には、ただの行為以上の、無窮の世界が広がっているのです。

次のステージへ

私たちは、これによって、一つの結論を得ました。しかし、武士道などにおける「道」の概念と同様、うんこ道には終わりはありません。

皆さんも是非、自分だけのうんこ道を極めてみてください。

あなたの排便という行為に対して、私の考察が、ひとつの大きな指針となることを願って、筆をおこうと思います。

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